意識高い系という名の病——感染・発症・そして免疫ができるまで

昔の自分のSNSを見て、顔から火が出るほど恥ずかしくなったことはないだろうか。

読んだ本の表紙を並べて投稿していた頃。「アウトプットが大事」と書いたストーリー。「コンセンサス」「アサイン」なんて言葉を使ってみたくて、無理やりねじ込んだツイート。スマホの画面をスクロールするたびに、過去の自分が恥ずかしそうにこちらを見ている。

もしあなたが今、そんな「黒歴史」に身悶えしているなら、この記事はきっと役に立つ。

「意識高い系」という言葉には、どこか皮肉めいた響きがある。けれど私は、それを「病」ではなく「通過点」として捉えている。誰もが一度はかかる成長痛のようなもの。大切なのは、その痛みをどう乗り越えて、どこへ向かうかだ。

この記事では、「意識高い系」という病の感染経路から完治までを、五つのステージに分けて辿っていく。批判ではなく、進化の過程として。かつてゴリゴリの「意識高い系」だった私自身の処方箋として。


第1ステージ:感染——なぜ「意識」は高まってしまうのか

きっかけは一冊の本。「承認欲求」という名のウイルス

始まりは、いつも小さい。

一冊のビジネス書。YouTubeで見かけた自己啓発の動画。インターンで出会った「できる先輩」の影響。何かのきっかけで、私たちは「学び」の世界に足を踏み入れる。

ページをめくるたびに、世界の解像度が上がっていく感覚。昨日まで知らなかった言葉、考え方、フレームワーク。それらが頭の中で繋がっていく興奮は、確かに心地よいものだった。

けれど、その心地よさには罠がある。

学んだことを、誰かに話したくなる。認めてもらいたくなる。「すごいね」と言われたくなる。心理学では、これを「承認欲求」と呼ぶ。人は本来、集団に受け入れられることで安心を得る生き物だ。太古の昔、群れから外されることは死を意味した。その名残が、現代の私たちにも深く刻まれている。

問題は、その欲求が「学び」と結びついたときに起きる。

「ほめられた」イコール「自分には価値がある」。そんな図式が、いつの間にか心の中に出来上がる。すると知識は、自分を磨くための道具ではなく、他人に見せびらかすためのバッジに変わってしまう。

私がビジネス書を読み始めた頃のことを、今でも覚えている。電車の中で本を開きながら、周りの人に表紙が見えているかどうかを気にしていた。読んでいる自分が、少しだけ特別な存在に思えた。それが「感染」の始まりだったのだと、今ならわかる。

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第2ステージ:発症——「全能感」という名の初期症状

少し学んだだけで専門家になったつもりになる

感染から発症まで、それほど時間はかからない。

本を数冊読み、動画を何本か見た頃。ふと気づくと、自分の中に奇妙な自信が芽生えている。「わかった」という感覚。世の中の仕組みが、手に取るように見えるという錯覚。

これを心理学では「ダニング=クルーガー効果」と呼ぶ。

簡単に言えば、「少しだけ知っている人ほど、自分の能力を過大評価しやすい」という認知の歪みだ。皮肉なことに、本当に深く理解している人ほど、自分の無知を自覚している。逆に、表面をなぞっただけの人は、わかっていないことすら見えなくなる。

私にも、恥ずかしい記憶がある。

経済学の本を一、二冊読んだだけで、友人にディベートを仕掛けたことがある。円安がどうとか、金融政策がこうとか。本の著者の言葉を、さも自分の意見のように語っていた。相手が反論できないと、勝った気になっていた。

今思えば、あれは「勝利」ではなかった。ただ、相手が呆れて黙っただけだったのだろう。

少しわかるようになると、かえって「わかっていないこと」が見えなくなる。その万能感こそが、発症のサインだ。

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第3ステージ:重症化——周囲を攻撃する「マウンティング」の正体

「お前、まだやってないの?」という選民意識の暴走

発症した病は、やがて重症化する。

「え、本読んでないの?」
「今の時代、トレーニングしてないのはまずいよ」
「まだそんなこと言ってるの?」

こうした言葉が、口をついて出るようになる。学んでいない人を見下し、煽り、自分の優位性を確認しようとする。心理学でいう「マウンティング」だ。

なぜ、人は他者を下に見たがるのか。

答えは単純で、自分が不安だからだ。

実は、マウンティングをする人ほど、自尊心が脆い。心理学では「壊れやすい自尊心」と呼ばれる。外からの評価に強く依存していて、否定されると激しく動揺する。だからこそ、先に他人を下に置くことで、自分の立ち位置を守ろうとする。

「社会には上下があって当然」「上の立場でいたい」——そうした価値観を持つ傾向は「社会支配志向」と呼ばれ、マウンティング的な行動と深く結びついている。

私自身、振り返れば思い当たることばかりだ。

本を読んでいない友人に、あからさまにガッカリしたような顔を見せたこと。「コンセンサス」「アサイン」「アグリー」といった横文字を会話にねじ込んで、悦に浸っていたこと。その瞬間は気持ちよかった。けれど、相手の表情が曇っていたことには、気づかないふりをしていた。

マウンティングは、自分の不安を他人より上に立つことで一時的に麻酔する行為だ。でも麻酔は、いつか切れる。そして切れたとき、残るのは空虚さと、傷つけた相手の沈黙だけだ。

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第4ステージ:免疫獲得——自分の「痛さ」に気づき、本物へ

「意識高い系」と「本当に意識が高い人」の決定的な違い

では、どうすれば病から抜け出せるのか。

答えは意外とシンプルで、「自分の痛さに気づくこと」だ。

あの頃の自分、痛かったな。そう思えた瞬間から、回復は始まる。それは自己否定ではない。成長したからこそ、過去の自分を客観視できるようになったという証だ。

ここで考えたいのが、「意識高い系」と「本当に意識が高い人」の違いだ。

両者の違いは、外から見るとわかりにくい。どちらも本を読む。
どちらも努力する。どちらも目標を持っている。けれど、根本的なところが違う。

本当に意識が高い人は、誰にも努力しているところを見せないし、言わないし、強要もしない。

でも不思議なことに、その人が何かに真剣に取り組んでいることは、自然と伝わってくる。体格、肌艶、目の力、ハキハキとした話し方。内側から滲み出る自信は、言葉で飾る必要がない。

心理学では、これを「安定した自尊心」と呼ぶ。外部からの評価と自分の価値を切り離して捉えられる状態だ。批判されても、失敗しても、自己価値の土台は揺るがない。だからこそ、他人をわざわざ下に見る必要がない。他者の成長も素直に喜べる。

一方、「意識高い系」の自信は、どこか脆い。ほめられれば舞い上がり、否定されれば過剰に反応する。だから、自分を守るためにマウンティングに走る。評価されることが目的になっているから、実質的な成長よりも「成長しているように見えること」を優先してしまう。

評価基準が外にあるか、内にあるか。それが、両者を分ける決定的な違いだ。

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第5ステージ:完治——病を乗り越えた先にある「進化の証」

意識高い系は「成長の最短ルート」へのチケット

ここまで読んで、落ち込む必要はない。

むしろ、「意識高い系」になれたこと自体が、ものすごい進化なのだ。

考えてみてほしい。本を読まなかった頃の自分。健康を気にしなかった頃の自分。勉強なんてどうでもいいと思っていた頃の自分。そこから一歩を踏み出して、学ぼうとした。それだけで、すでにあなたは変わっている。

たとえ今、知識をひけらかしている段階だとしても。たとえ周りから「痛いな」と思われていたとしても。何もしないよりは、ずっといい。

「意識高い系」は、通過点なのだ。そこを抜ければ、「本当に意識が高い人」になれる。

ただ、できることなら、その通過点を短くしたいとも思う。だって、周りから「痛い」と思われている時間は、単純にもったいないから。

ショートカットの鍵は、「メタ認知」だ。

自分を客観的に見る力。「今、自分は承認欲求で動いていないか?」「この発言は、誰かを下に見ていないか?」と、一歩引いて自分を眺める習慣。それがあれば、暴走を防げる。

私はかつて、ゴリゴリの「意識高い系」だった。それを隠すつもりはない。

でも今は、少しだけ違う景色が見えている。知識は、他人に向ける武器ではなく、自分を磨く道具だということ。本当の自信は、外から与えられるものではなく、内側から育てるものだということ。

そしてもう一つ。「痛かった過去」があるからこそ、今の自分がいるということ。

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おわりに

「意識高い系」は、何者かになろうともがいている熱意の証拠だ。

何も学ばず、何も挑戦せず、ぬるま湯に浸かっていれば、「痛い」と思われることもない。でもそれは、成長を放棄した人生でもある。

あなたが過去の自分を「痛い」と感じるなら、それはあなたが成長した証だ。あの頃の自分を笑えるようになったということは、あの頃の自分より、今の自分のほうがずっと遠くまで来たということだ。

知識を武器として他人に向けるのをやめて、自分を磨く道具として使い始めたとき。病は静かに完治し、本物の自信が、あなたの内側に根を下ろす。

かつての自分に、伝えたいことがある。

大丈夫。その痛みは、進化の途中にいる証拠だから。


窓の外を見れば、空はいつもと同じ色をしている。けれど、その色の名前を一つ知っているだけで、世界は少しだけ鮮やかになる。知ることは、本来そういうものだったはずだ。誰かに見せびらかすためではなく、自分の目で、世界をもう少しだけ深く見つめるために。

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